・村上春樹のデビュー作であり、
・長編4冊にわたる「羊物語」のプロローグでもある。
ケータイなどは存在していない時代で、
飲酒運転が比較的多めに見られていた時代で、
どこででも煙草が吸えた時代に生きる、
若者、大学生の誰もが経験する、
大学の授業を受けることの虚無的な感覚。
(こんな授業が何の役に立つ?)
中学/高校での受験勉強などの抑圧された生活からの急な解放への戸惑い。
(学校に行く行かないなど、基本的には何をして、何を選択するのもも自由)
ビールの味がわかりかけて、またはうまさが分かって来て。
(つまりは飲む回数が増えて、飲むことが当たり前になって)
セックスを経験し始める。
(個人差は非常に大きい分野ではあるのだけれど)
そんなモラトリアムな(大人から見ると)優雅に過ごす学生の姿が淡々と描かれているわけだ。
だから、これを読む私自身の気持ちが・・・・
イライラして気持ちがささくれ立っている時は、「鼻持ちならない学生の暇つぶし」を生理的に嫌悪する。
ゆったりと満たされている時は、「自分の学生時代」を振り返り懐かしく回顧する。
弱っている時には、主人公の弱さや甘さが鼻につくし、舞い上がり気味の時には主人公に肩入れできる。
なんとも、読む者の現状の心理に非常に左右されやすい小説なのだ。
これはその後の「ノルウエイの森」や「羊を巡る冒険」「ダンスダンスダンス」などの「グイグイと読むものをストーリーに引きずり込む」力強さが無く、淡々と叙事的に話がすすみ、そしておらる・・・
というスタイルにも依っているのだと思う。
しかし、こうした「読む者の心理状況により評価が変わる」という位置づけを与えた私だが、後日村上自身の言葉に驚愕してしまった。
「完璧な文章など言ったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないように」
村上は、彼は、このわずか一行の文章を書きたくて、この小説を上げたのだという。
この一文以下の文章は単なる「付け足し」に過ぎないのだと。この小説一冊を通して、文庫版で150ページを通じて主張したかったことは、
たった一行の、
「完璧な文章など言ったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないように」
という言葉以上のものでは以下のものでもないのだと、彼は言うのだ。
なるほど、私たちが読まされた150ページは「単なる付け足し」だったということで、だからこそ、読み手の評価もその時その時で変化しうる底の浅さなのだと。
村上の羊三部作、そしてダンス・・・に続くプロローグとして読むのと、
一人の若者の心のジレンマを感じるスタンスで読むのとでは、感じが全く異なる。
読むたびに印象が全く異なる、ユニークな一冊ではある。


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